■ 99年12月27日(月曜日) 「梟の城」と「忍」という人格について


Crime doesn't pay . . . does that mean my job is a crime ? - Anonymous


 vir1.0

美智子皇太后が「梟の城」という映画を見に出かけられたという話を11月頃テレビのニュースで報じていた記憶がある。司馬遼太郎の「梟の城」は昭和34年9月に講談社から刊行されたいたので、たくさんの人がその小説を目にしてきたと思う。

その小説の「甲賀ノ摩利」という一節に、京都奉行であった前田法印玄以が伊賀の風間五平を使いながらも五平の動静を監視させるために9年ぶりに呼び寄せた甲賀の摩利洞玄と最後に別れた時のくだりを以下に紹介したい。

 

 

玄以と摩利洞玄は、もともと尋常の仲ではなかった。天正十年六月二日明智光秀の一手が京の織田信忠の旅宿を囲んだとき、信忠は幼君三法師護持の任を玄以に与え、たまたま信忠が手許に使っていた忍者、甲賀ノ摩利洞玄を脱出のために付けたのである。因縁はこのときにはじまった。

洞玄は乱刃の中を果敢に斬り抜けて白河口にまで至ったが、ここでも敵の兵が道に満ちているのを知ったとき、玄以をふりかえって、

「もはや力及ばぬ。わしは忍者ゆえ天にも地にも見を隠せるが、お手前ら一行を連れていてはなんともすべがない。ここで腹を切るがよい。わしが介錯してやるでな」

「われはどうする」

「云うまでもない。わしは日本国でなんびとがあるじでもない忍者じゃ。さむらい共の争いに挟まって死ねば恥になる。わしは逃げるぞ」

「ま、待て。それではわしは主君の遺命が果せぬ。なんとか連れて逃げてくれ」

「あ、伏せい」

洞玄は、すがりつく玄以らを草むらのかげにつきとばし、明智の兵が通りすぎるのを待ってから、

「年に五十貫ならどうじゃ」

洞玄は小声で妙な事をいった。

「ふむ。――まあ、よかろう」

救出の謝礼として、摩利洞玄が生きているかぎり、毎年甲賀郷の洞玄の屋敷へ五十貫文を届ける約束をしたのである。洞玄は背に玄以を縛り、胸に幼い三法師を抱き、文字どおり摩利支天のように山野を駆けてついに岐阜城まで送りとどけた。

城に着いたときは、さすがの洞玄も満身にうけた擦り傷が化膿して息をつくのも苦しげだったが、一刻も足を城にとどめず、袖を引きとめる玄以の手をふりきって、

「甲賀に女が待っている。久しゅう抱いていない」

快活に笑った。玄以はその姿をほれぼれと見て、武芸才覚いずれをとっても乱波には惜しい奴と思った。

「気を変えてみぬか。このままここに留まってさむらいの中に入れば、小城の一つも持てる器量じゃ」

「たわけた事を去う。まだお手前にわからぬか。お手前が命を拾えたのもわしが忍者であったからじゃ。ただのさむらいなら、とうにお手前の命はどこぞの野に落ちていよう。忍者にはそれだけの働きがあるが、そのただのさむらいの群れにはまじわれぬ心組があってな、いわば片輪じゃ。ことに、主取りをしたり家来を持ったりする物憂さに堪えられぬ。その矢倉の屋根を見るがよい。むらがっておる雀、あれが、おぬしらさむらいというものとすれば」

「われは何じゃ」

「梟じゃよ」

「忍者は梟と同じく人の虚の中に棲み、五行の陰の中に生き、しかも他の者と群れずただ一人でいきておる。これで、ひとなみのさむらいの暮しが出来ると思うか。――そういう余計な心配をするよりおぬし」

玄以の肩を叩いて、

「五十貫文の約束は忘るるな。その金でわしは、また一人、女を養えるのがたのしみじゃ。そのためには、おぬしが出世をしてくれぬとこまる。陰ながら祈っておくぞ」

摩利洞玄は、そう去い残して傷だらけの体を城から消した。

 

 

私の祖父は、信州の佐久に生まれて、小学校を出てからJ製紙に入社し、高岡市伏木の工場に55歳の定年まで40年近く無遅刻・無欠勤で働いた。私はそのようなサラリーマンの生き方にも共感すると同時に、これまでの生き方が「梟の城」にでてくる洞玄や主人公である重蔵に似ていて、時々「忍者の血」が流れているように思うことがある。それも甲賀よりも伊賀者であろう。

話はかわるが、11月のある日、会社を10時頃出た時に、玄関の暗がりで私服の警官に止められたことがある。その直後にメキシコ大使館からパトカーに先導されてくる車の後部座席から美智子皇后がこちらに顔を向けられてゆっくり礼をされた。同僚のYさんと私は思わず礼を返した。やっぱり東京ならではの出会いがありますね。

 

つづく

 

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