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芦屋マンションスタイル「あんなマンション こんなマンション みんなで芦屋マンションライフをバリューアップ」
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芦屋市内の道路

芦屋市内の道路|芦屋マンションスタイル

 

芦屋市内には6本の国道が走っています。

 

これらの国道や幹線道路沿いには多くのマンション(芦屋市内)が建設されています。

 

 

1)山手幹線

 

天上川である芦屋川の下を通り抜ける山手幹線の工事が遅れていましたが、

 

阪神大震災の折の生活や復興物資の輸送に国道43号線や2号線が壊滅的となって使えず、

 

西宮側から神戸側に抜けられる貫通道路が必要とされ、

 

永年開通が待たれていましたが収用なども進んで、工事も2014年に開通しました。

 

 

2)国道2号線

 

芦屋市内のメイン道路です。

 

歌にもあった「夜霧の第2国道」なんでしょうか。

 

1027年に昔からの旧国道、西国街道(本街道)を拡張して建設されました。

 

現在はラーメン街道とも揶揄されるほどラーメン店が多いです。

 

ただ道路交通法で店の前に駐車でランチができなくなったりで、店主は大分困ったのではと思います。

 

またこの国道沿いには、中古マンションもたくさん建設されています。

 

一説では国道からの排気ガスや車の騒音を住宅地に流れさせないために、

 

7階建てなどの高いマンション建設が続々と全国的に誘導されたからなんですね。

 

 

 

3)鳴尾御影線

 

国道2号線と国道43号線の間を走る道路で、第2次世界大戦後、復興事業として1946年認可され、

 

1950年(昭和25年)ごろに完成されました。

 

旧西国街道沿いに、緑のケヤキ並木が残っています。

 

車の往来は比較的少なく、住環境はいいですね。

 

阪神電車の打出駅が通勤時の最寄の駅になっています。

 

 

4)国道43号線

 

旧浜街道を整備して、国道43号線が1960年(昭和38年)に開通しました。

 

現在、上り下り3車線づつあり、交通量の多い産業道路となっています。

 

大阪万博の前の1969年に国道43号線の上に阪神高速3号神戸線が開通しました。

 

あの阪神淡路大震災で横転したのがこの高速道路でした。

 

芦屋には上り入り口と下り出口が海を埋め立ててできた陽光町にあります。

 

 

5)阪神高速道路湾岸線

 

芦屋浜の埋め立てで昔の海岸線に沿ってできた道路です。

 

芦屋川の東岸から西宮にかけて建設され、それに沿って阪神高速5号湾岸線が走っていて、

 

芦屋の南浜にはこの東行き入り口と西行き入り口があります。

 

 

6)芦有ドライブウェイ

 

表六甲から裏六甲に抜ける観光開発と産業交通の目的で、

 

芦屋奥山から神戸市北区の有馬温泉まで10.7Kmの有料道路です。

 

阪急バスが芦屋駅前から有馬温泉駅(山口営業所行き)まで運行しており、

 

芦屋市営バスとして割安チケットも発売していました。(現在中断中?)

 

芦有ドライブウェイは株式会社芦有ドライブウェーが近隣観光施設とともに運営しています。

 

約20分での芦屋-有馬間往復料金が普通車で1400円と割高感があります。

 

中ほどにある展望台では眼下に遠く大阪湾まで望めます。夜景もかなり美しいです。

 

奥池に開発された住宅地に住む人々は通行のたびに通行料が必要です。

 

割引の定期券を発行しているようですね。

 

また最近の集中豪雨での土石崩れで1年くらい通行止めがありました。

 

くねくねのヘヤーピンカーブが続きます。

 

 

 

 

 

芦屋モダニズム|芦屋っぽい風景

芦屋モダニズム|芦屋っぽい風景

 

芦屋っぽい風景があるのか、無いのかのベースには
大正年間から流れる「芦屋モダニズム」(阪神モダニズムとも言われるのかも)があります。

 

芦屋に流れていた「芦屋モダニズム」について、
参考書籍が芦屋市立図書館にあったので閲覧し感じたところを投稿してみました。

 

「芦屋の文化村」

大正年間、あの小林一三翁が開発した宝塚劇場や
阪急電車沿線と阪神電車沿線が競うように、

 

当時神戸市に属した深江村から芦屋にかけて
多くの富裕層が別荘や住宅をつくり移住してきました。

 

建築家吉村清太郎が設計した、「芦屋文化村」
緑の芝生に囲まれた洋館建ての貸別荘群でした。

 

ここにはロシヤ革命から亡命してきた
音楽家や芸術家が集まってきたのです。

 

当時著名なアレクサンダー・ルーチンなどの門下生が集まって
西洋音楽が伝わる国際交流の場となったようです。

 

ヴァイオリニストのモギレフスキーや芦屋出身の
有名ヴァイオリニスト貴志康一(きし・こういち)の師であったウェクスラー。

 

ピアニスト、神戸女学院音楽部教授のフチェフ、声楽家のカラスロヴァ、
また日本初のオーケストラであった宝塚交響楽団の指揮者ヨセフ・ラスカなどが、
外国人向けの「芦屋文化ハウス」に集まりました。

 

ずいぶん重みがあるんですね、軽井沢や田園調布と並びますね、どうでしょう? 😛

 

また音楽以外の文化面でも大勢の文化人を育ててきたようです。

 

芦屋では文豪では細雪の谷崎潤一郎、作家富田砕花、洋画家小出楢重、歌人高濱虚子、登山家藤木九三などの文化人たちが住むことによって、

 

瀟洒な洋館、風光明媚な街、富裕層の多い街に文化の華が開いたのです。

 

個人所有の動物園もあったそうです。

 

これの流れや影響もあって、富裕層が暮らす六麓荘町や涼風町のベルポート芦屋のプライベートマリーナなどの町並みが整備されてきたのでしょう。

 

また阪神間でも同じような潮流で、神戸なら六甲山や

 

西宮市なら遊園地香枦園甲子園球場阪神パーク宝塚市なら宝塚劇場などが文化や歓楽、スポーツなど相互にモダニズムが勃興したのでしょうね。

 

※参考:「業平と芦屋100浪漫」から

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城山 | 芦屋の伝説

659-0081|城山|芦屋の伝説

城山は芦屋市の北部にあります。

むかしここに鷹尾城があったのです、また江戸時代には大阪城築城のための花崗岩を賦役についた大名が切り出しました。

切り出した石は宮川の河口から船で大阪湾を経て、大阪城の建設現場に運ばれたのでしょう。

戦国時代にはこの城山の鷹尾城や芦屋川を戦場にした激しい争いもあったようです。

このあたりの話しは刻印石の投稿ページに書いてあります。

 

アイキャッチ画像は開森橋から上流の遠望で、中央が芦屋川に架かる開森橋、左の山が城山、右の山が奥山です。

マンションは芦屋川左岸にできたシャンポール芦屋川です。

 

芦屋川のさくらは芦屋一番の桜の名所でもあります。

 

西国橋|芦屋の伝説

659-0028-1 西国橋|芦屋の伝説

西国橋ここ打出小槌町にあり、宮川に架かった小さなこの「西国橋」が京の都と芦屋を結んだ西国街道なのです。

山陽道とも呼ばれて、九州の大宰府と京を繋いだ国道でした。

西宮から打出小槌町で付近で本街道と浜街道に分かれます。

ここ打出小槌町でには昔一本松の老木があって、参勤交代の行列もここで一服したそうです。

いまも宮川の西国たもとには地蔵堂がのこり、黒いのら猫がのんびりとうたたねをしています。

この近くにはガーデニングの二楽園やロイヤルホストがあります。

昔大きな市場もこの二楽園あたりにあったそうです。

 

※参考「業平と芦屋100浪漫」

 

 

刻印石|芦屋の伝説

659-0027-1 刻印石|芦屋の伝説

宮川べり、若宮町と宮川の道路沿いにある小さなスペースに「若宮街かどひろば」の標識があります。

この石垣を形成している大きな岩石が刻印石です。

江戸時代の初め、徳川氏が造り替えた大阪城の石垣用に、

芦屋の裏山である六甲山系の花崗岩を切り出して、

宮川の河口から大阪湾に輸送した往時の遺物ですね。

岩石の刻印には福井藩の松平家紋、萩藩の毛利家家紋など各種あります。

当時は城山岩ヶ平方面から切り出されたとされています。

 

そうそう城山というのは、ここには芦屋唯一の城である鷹尾城のことです。

戦国時代、細川隆邦の軍と細川澄元軍が芦屋川や鷹尾城で激しく争っていました。

高国側の瓦林政頼は鷹尾城に立てこもっていた。

そこへ澄元軍の河島兵庫助が16歳の息子・松若丸を連れて投降し、髙国側が勝利。

褒美で父は鷹尾城、息子の松若は西宮の越水城で政頼に仕えていたそうです。

その後父は裏切りの汚名で自害し、それを聞いて駆けつけた松若丸も捕らえられ、

西宮の六湛寺(ろくたんじ)で惜しまれながら自害させられたのです。

辞世が「父に我 つかふ願も 三瀬川 ともに越ゆべき 道のうれしさ」。

松若は聡明で歌も良くしたと伝えられています。

岩ヶ平や越水、六湛寺など西宮市の現在の地名が出てくるんですね。

 

※参考「業平と芦屋川や100浪漫」

 

これらの石は良くクラシックなマンションの石垣などにもつかわれていますね。

 

芦屋では2号線沿いの春日町のマンションの南側部分がそんなのに近い大石で構えを守っています。それではないでしょうか。

 

ところが最高級なマンションでも最近は薄っぺらなタイル貼りが多いですよね、残念。