■ 2010年12月31日(金)

 武士道とBUSHIDO(Inazo Nitobe)


 武士道(新渡戸稲造著、奈良本辰也訳・解説、三笠書房)を読み返している(忍の東京見聞録:2003年6月27日(金) 武士道(新渡戸稲造)と壬生義士伝の吉村貫一郎)。
 第一版への序文は以下の文章から始まる。
 約十年前、著名なベルギーの法学者、故ラヴレイ氏の家で歓待を受けて数日を過ごしたことがある。ある日の散策中、私たちの会話が宗教の話題に及んだ。
 「あなたがたの学校では宗教教育がない、とおっしゃるのですか」とこの高名な学者がたずねられた。私が、「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり突然歩みをとめられた。そして容易に忘れがたい声で、「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返された。
 新渡戸氏は、そのときはこの質問に答えることができなかったという。
 その後、新渡戸氏に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を分析してみると、そのような観念を吹き込んだものは武士道であったことにようやく思いあたったという。

 ここからは、新渡戸稲造氏の武士道のエキスから日本刀についてまとめておきたい。英語版と日本語版の対訳(PDF)はこちらから

武士道とは何か
人の道を照らしつづける武士道の光
 「武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である。わが国の歴史の本棚の中におさめられている古めかしい美徳につらなる、ひからびた標本の一つではない。
 それは今なお、私たちの心の中にあって、力と美を兼ね備えた生きた対象である。それは手にふれる姿や形はもたないが、道徳的雰囲気の薫りを放ち、今も私たちを引きつけてやまない存在であることを十分に気づかせてくれる。
 武士道をはぐくみ、育てた、社会的条件が消え失せて久しい。かつては実在し、現在の瞬間には消失してしまっている、はるか彼方の星のように、武士道はなおわれわれの頭上に光を注ぎつづけている。封建制度の所産である武士道の光は、その母である封建制度よりも永く生きのびて、人倫の道のありようを照らしつづけている。
「刀」−なぜ武士の魂なのか
刀は忠誠と名誉の象徴
 武士道は刀をその力と武勇の象徴とした。
武人の究極の理想は平和である
 武士道は適切な刀の使用を強調し、不当不正な使用に対しては厳しく非難し、かつそれを忌み嫌った。やたらと刀を振りまわす者は、むしろ卑怯者か、虚勢をはる者とされた。沈着冷静な人物は、刀を用いるべきときはどのような場合であるかを知っている。そしてそのような機会はじつのところ、ごく稀にしかやってこないのである。
鍛冶は重要な宗教的行為だった  刀匠は単なる鍛冶屋ではなく、神の思し召しを受ける工芸家であった。その仕事場は聖なる場所ですらあった。彼は毎日、神仏に祈りを捧げ、みそぎをしてから仕事をはじめる。
 あるいは、いわゆる「彼はその心魂対搬を打って錬鉄鍛冶した」のである。
 大槌を振り、水につけ、砥石で研ぐ、これらすべてがたいへん重要な宗教的行為であった。
 日本の刀剣が人を畏怖させるほどの魔力をもつのは、この刀鍛冶たちの気塊によるの、だろうか。あるいは彼が加護を祈った神仏の霊気によるものだろうか。芸術品としてそれらが全きものであるだけでなく、あのトレドやダマスカスの名刀をも凌駕する名刀には、芸術が与えうる以上の何かがあったのだ。
 鞘から引き抜かれた瞬間、表面に大気中の水蒸気を集める氷のごとき刀身、その清冽な肌合い。青白く輝く閃光。比類なき焼刃。それらには歴史と未来が秘められている。それに絶妙な美しさと、最大限の強度を結びつけているそりのある背――これらのすべてが力と美、畏敬と恐怖の混在した感情を私たちにいだかせる。

 この武士道は、1906年に英語版で出版されたという。英語版のBUSHIDOには、序文“PREFACE TO THE FIRST EDITION”として以下の文章が書かれている。
About ten years ago, while spending a few days under the hospitable roof of the distinguished Belgian jurist, the lamented M. de Laveleye, our conversation turned during one of our rambles, to the subject of religion. “Do you mean to say,” asked the venerable professor, “that you have no religious instruction in your schools?” On my replying in the negative, he suddenly halted in astonishment, and in a voice which I shall not easily forget, he repeated “No religion! How do you impart moral education?

 このときから新渡戸氏は十年の歳月を費やして、日本人の思想ともいえるBUSHIDOをしたためたのだ。私事ではあるが、居合を始めてから足掛け8年、あるところまで行くと見えていなかったものが見えてくる。その先がまた楽しみである。

 (つづく)

- P.31 -

ホームページへ 前の頁へ 目次へ 次の頁へ